犠牲をチェックしよう☆冬至とクリスマス
冬至、クリスマスと続きますね。
クリスマスはイエスの誕生日ではなく、イエスの生誕をお祝いする日です。
太陽が短くなる時期から長くなる時期へと切り替わる冬至は太陽が新しく生まれる日として古代から大切に祝われてきました。
「イエスの生誕」を祝う日として適していると判断して教会が祝日を決めたのでしょう
イエスにまつわるシーンというと生誕に並び、磔刑のシーンが印象にあるでしょう。
それについては多くの誤解があることをご存知ですか。
悲劇を賛美する文書ではまるで磔刑がイエスの使命であったかのように書かれることがあります。
しかしイエスの役割は光の叡智を人々にもたらすことでした。
磔刑はあくまでローマ帝国側の勢力に追い詰められた最期です。
イエスの磔刑を犠牲という言葉で美化することはあまりいいとは思えません。
巧妙な策略が介入しそうな感じがします。
イエスに共感した人々は、他者からスポイルされる「犠牲」というパターンに陥ってしまいがちだからです。
犠牲体質になった人からは、スポイラーたちは容易にエネルギーやその他を盗むでしょう。
(スポイラーの代表的存在。お腹の中で舌を出した『悪魔』)
そういう後進たちの姿は決してイエスの望むところではないように思います。
神殿の前で参拝客を相手にあざとい商売をし、神殿を汚していた商人の露店を蹴散らしたエピソードもイエスにはあります。
イエスは強くたくましい心ももっていたに違いないと考えられます。
弱々しい犠牲の救世主として見るとは「なめんなよ」という話ではないでしょうか。
「磔刑によって人類の罪があがなわれた」ストーリーは盗人にとって非常に都合のいい解釈でしょう。
自分の罪は自分で背負うのが当然のことです。
何かの犠牲を賛美するような話を聞いたときには搾取が起きていないかよく観察してみることが必要です。
犠牲を称えているその人はエネルギーを提供している側でしょうか、
取っている側でしょうか。
エネルギーを提供しているとしても、自分以外の人にエネルギーの提供を強いている場合はスポイラーの手先かも知れません。
「イエスの磔刑」という言葉に耽美的なものを感じる場合は自分の中に偽りの価値観が紛れ込んでいないか調べてみるチャンスです。
スポイルの構造に気をつけてみましょう。
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