安全なところまで☆スポイラーとさよならする責任

前の記事では「スポイラー」のことを書きました。

『犠牲はまちがい☆スポイルに気をつけろ』

スポイラーと反対側の人についても書くことが必要なようです。
 
 
 
スポイラーに犠牲を強いられていたことに気づくと悲しみや怒りが起こってきます。

その後、恨み辛みを持ち続けることに嫌気がさしたら、その状態を脱して先に進みたくなります。

自分でやりやすいものとしては、対話のイメージワークや出さない手紙を書くワークなどで感情を解放することができます。
 
 
 
それを充分にやっていってもなぜか先に進めないことがあります。

怒りや恨みを手放そうとしても、繰り返し湧き起こってきて困惑します。

許すということはその相手とまだ一緒にいなくてはならないと思い込んで、先に進めない場合があるのです。

「完全に許せるということは一緒にいても平気なはずだ」という進化を足止めさせようとする言葉を吐く存在がいたりします。
 
 
 
しかし自分にとっていい関係じゃないものを退ける強さもつことがこの人生の課題である場合もあるのです。

これは親を始めとした家族も例外ではありません。

関係改善しようとして努力しても無駄だったのなら、距離をとったり、決別したりする決心した上で許すという考え方が可能です。

相手との境界線を引きなおすということです。

昔に比べると、現在は急激な進化が可能な状況にあり、進化を選択した人の中には過去に関わってきた人たちとの交流が難しくなっている人は多いのです。
 
 
 
(公正さ守護する『正義』。大きな剣をもっている)
 
 
 
関係を変えるという段階になったとき、しなければならないことに自分の責任と向き合うということがあります。

犠牲を受け入れてしまった自分の「自分を大切にする気持ちが充分じゃなかった」責任や「最初に気持ちを伝えなかった」責任などをきちんと見つめることです。

また犠牲者的にふるまって「あなたがわたしをこんな風にした」という習性になっていないか、あるいは逆にスポイラーやスポイラーに見立てた相手を手玉に取ろうとしてないかの確認もするといいでしょう。

自分が自分の人生の主権者です。

自分の人生に対する権利と責任はセットになっています。
 
 
 
関係性によっては自分が離れる決意をするだけで可能なものから、実務的な行動や協力者が必要な場合もありますが、自分を大切にする主権者にはそのステップを行う権利があります。

人生の主権者としての行動ができたら、自分と他人を許すというプロセスに進むことができます。

自分を安全な場所まで連れて来た後にやっと防御の剣を下ろすことが可能なのです。
 
 
 
許しによって恩恵を得るのは自分自身です。

悲しみや怒りによってすり減らしてきたエネルギーを自分の人生を新たにするエネルギーにまわすことができるようになります。

ここでひとつポイントがあります。
 
 
 

この『節制』は看護師やヒーラーなど人を癒す役割を果たす様子を表わすことがありますが、大きな天使はやさしい眼差しを注ぎながら、ゆっくりと水瓶の水を移し替えています。

癒しの段階に来たら、回復に充分に時間をかける自分へのやさしさが薬になるということです。

足元には蛇がからまったような象徴が描かれていますが、これは魂の癒しの象徴の一部です。
 
 
 
タロットには、痛みや怒りからの自分の癒し・再生の智慧が描かれています。

『正義』の強さや『節制』のやさしさもそのひとつです。

そこをじっくり通過し終わったとき、ものごとを見る自分自身の視点の変化に気づくかも知れません。
 
 
 
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犠牲をチェックしよう☆冬至とクリスマス

冬至、クリスマスと続きますね。

クリスマスはイエスの誕生日ではなく、イエスの生誕をお祝いする日です。

太陽が短くなる時期から長くなる時期へと切り替わる冬至は太陽が新しく生まれる日として古代から大切に祝われてきました。

「イエスの生誕」を祝う日として適していると判断して教会が祝日を決めたのでしょう


 
 
 
イエスにまつわるシーンというと生誕に並び、磔刑のシーンが印象にあるでしょう。

それについては多くの誤解があることをご存知ですか。
 
 
 
悲劇を賛美する文書ではまるで磔刑がイエスの使命であったかのように書かれることがあります。

しかしイエスの役割は光の叡智を人々にもたらすことでした。

磔刑はあくまでローマ帝国側の勢力に追い詰められた最期です。
 
 
 
イエスの磔刑を犠牲という言葉で美化することはあまりいいとは思えません。

巧妙な策略が介入しそうな感じがします。

イエスに共感した人々は、他者からスポイルされる「犠牲」というパターンに陥ってしまいがちだからです。

犠牲体質になった人からは、スポイラーたちは容易にエネルギーやその他を盗むでしょう。

(スポイラーの代表的存在。お腹の中で舌を出した『悪魔』)

そういう後進たちの姿は決してイエスの望むところではないように思います。
 
 
 
神殿の前で参拝客を相手にあざとい商売をし、神殿を汚していた商人の露店を蹴散らしたエピソードもイエスにはあります。

イエスは強くたくましい心ももっていたに違いないと考えられます。

弱々しい犠牲の救世主として見るとは「なめんなよ」という話ではないでしょうか。

「磔刑によって人類の罪があがなわれた」ストーリーは盗人にとって非常に都合のいい解釈でしょう。

自分の罪は自分で背負うのが当然のことです。
 
 
 
何かの犠牲を賛美するような話を聞いたときには搾取が起きていないかよく観察してみることが必要です。

犠牲を称えているその人はエネルギーを提供している側でしょうか、
取っている側でしょうか。

エネルギーを提供しているとしても、自分以外の人にエネルギーの提供を強いている場合はスポイラーの手先かも知れません。
 
 
 
「イエスの磔刑」という言葉に耽美的なものを感じる場合は自分の中に偽りの価値観が紛れ込んでいないか調べてみるチャンスです。

スポイルの構造に気をつけてみましょう。
 
 
 

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隠遁の勧め

6年前に移住を決意して、平戸に引っ越ししてきた。

ひょんなことから、移住することになり、
これも一つの縁なのだろうと思うのだが、
意識していなかったが、いわゆる田舎暮らしをしているのである。

田舎での暮らしは都会の生活とは、いろんな面で違いがあるし、
最初の頃は、不便さばかりを感じていたが、
最近では今の暮らしに慣れて居心地の良さを感じるようになった。

そんななかで、
近頃になって気づいたことがある。
それは都会暮らしとの大きな違いである。
 
 
その違いとは、
 
「静寂さ」
 
 
 
先日、福岡に買い物に行くことがあり、
その途中、ちょっと休憩しようとスタバに入った。

福岡に居たときはスタバに行くことはしょっちゅうだったが、
あらためて気が付いたことは
 

「すごく音がうるさい」ということ
 

もちろん、たくさんのお客の話し声がする。

話声だけではなく、

忙しいカフェの厨房の物音。
通りの車、人ごみの騒音などなど。

おそらく、お客が一人も居なくても、
いろんな音がするだろう。

歩き疲れて、ほっとしようと思っての
休憩のつもりだったが
結局、うるささに参って、早々に店を出た。
 

昔はスタバは大好きだったのに、
今の自分にとっては何か違和感を感じて、とまどっていた。
たぶん僕が変わってしまったのだ。

平戸にいると
通りにいる人の話し声がはっきり聞こえるし、
車の音はそこを通った車の音だけ。

夜だけではなく、昼間でも、
音を出す人や車がいなくなったら
すぐに静かになる。

本当に静かだと
「しーん」という音がするのを知っているだろうか。

平戸では
ちょっとした物音がなくなり、静かだなと思うと
「しーん」という音がする。

この静寂さを知った今では
もう都会では住めないような気がする。

前回の記事で、ネットにあふれている情報に不必要なものが溢れていることを書いた。
不必要な情報や人の意見などのことを「雑音」ともいうが

田舎に居れば、
まず自然現象としての雑音がない。

雑音はできるだけ避けたい。
そして、本当に知りたいことだけに集中するほうがいい。

何かをじっくり考えたりするときは、誰もがそうしていると思う。
小説家などが、小説という別の世界を頭の中で想像し、言葉で紡ぐために、
雑事を忘れ、静かな場所で執筆するために旅館やホテルにこもるようにだ。

タロットにその必要性を表しているカードがある。
そのカードはこの「隠者」。

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分厚いコートを着て身をひそめるような姿は、
外の情報をシャットアウトしている様子を表していて、
右手に持ったランプで、自分の知りたいことだけに光を当てている。

若いうちは喧騒を楽しめるかもしれないし、
多くの情報に自分の知らないことが溢れていて、
それにワクワクする時期もあるだろう。

だが、ある程度成熟してきたら、
それらの情報のなかに、自分に不必要なものと必要なものがあることに気が付く。
だから隠者は若者ではない。

雑音だらけの中に居たら、
感覚はマヒして、取捨選択することができない。

一度、静寂な場所に身を置いて
自分に必要な知識や情報はなんなのかを考えるようにするのがいいと思う。

僕は、「隠遁」をお勧めする。

一時的でもいいから、社会の喧騒から離れ、世俗から離れ、
雑音のないところへ身を置いてみるといいと思う。
そうすると、今まで気づかなかった大事な何かが見えてくると思う。